
(ラサ郊外のチベット族の家)
今回の旅行ではラサ郊外にあるチベット族の家庭を訪問することができたのだが、牧畜と農業を営む一般的な農家でも部屋には電球があり、居間の棚にはテレビやミキサーといった電化製品が置かれ、その生活環境が確実に変化しているのがうかがわれた。そのミキサーで作れらたヤクのバター茶で彼らに歓迎され、その少々塩の効いた独特の風味を味わいながら、もしチベットが独立国だった場合、ここまで生活環境は便利にはなっていなかったのだろうな、と思ったのも事実である。

(バター茶、塩を加えていて独特の風味がする)
現在のチベットが中国政府の元に完全にコントロールされている状況を考えると、外国人旅行者である僕たちが見るのはどうしても中国政府のフィルターを通したものになってしまうだろう。つまり『セブン・イヤーズ・イン・チベット』で描かれていたのが欧米から見たチベットだとすれば、今回僕が見たのは中国から見たチベットと言ってもいいと思う。その両方を見たとき、これからチベットが一体どのような道を歩めばいいのか、今のままがいいのか、独立を目指すのがいいのか、正直言って、僕は結論が出なくなってしまった。
ただ今回の旅行で改めて強く思ったのは、チベット族にとっていかにダライ・ラマという存在が大切なものかということである。16世紀以来、歴代のダライ・ラマが観音菩薩の化身として、チベット族の尊敬を集めてきた存在であることはどうやっても否定できない事実で、ポタラ宮にあるダライ・ラマ14世が24歳まで暮らしていた部屋の前に来ると、チベット族の人はみな一段と深い祈りをその部屋に捧げている。その様子を見ると、公には禁じられていても今もダライ・ラマへの尊敬はチベットでいきづいているように感じられた。

(チベット族の一般家庭にある仏間)
また訪れたチベット族の民家にある仏間の棚に、もう一人の聖人であるパンチェン・ラマの写真は飾られていたが、ダライ・ラマの写真が飾られていないのはとても不自然な光景だった。『セブン・イヤーズ・イン・チベット』で聡明な少年として描かれていたダライ・ラマ14世もはや今年で75歳である。チベットがこれからどのような形をとるにせよ、そこにダライ・ラマの姿がないのは、チベットにとっての不幸としかいいようがない。彼の一日も早いチベットへの帰還を願ってやまない。
さて30分ほど滞在したチベット族の民家からの帰り際、僕はガイドの呉さんに彼らにこう言ってもらうように頼んだ。「皆さんのこれからの幸運を祈っています」と。日本語から中国語、さらにはチベット語へ翻訳されたその言葉がうまく伝わったのかどうか、彼らの反応からはよくわからなかった。帰りの車に向かうとき、その家の最長老であるおばあさんが一緒にやって来て、最後尾から門を出ようとする僕に、彼女は柔和な笑顔で両手を差しのべた。彼女の皺だらけで小さい手を握ると、思ったよりも肉厚で、彼女は力強く僕の手を握りかえしてきた。チベット侵攻以前に生まれ育ったため中国語を話せず、チベット語しか話せない彼女は、チベットにとって激動の時代を、僕らが思っているよりもきっとはるかにたくましく生きてきたのだろう。僕は思わず日本語で「本当に幸運を祈っています」と言って、彼女の手を強く握りかえした。

(チベット仏教の聖なる湖の一つヤムドク湖)