
ホテルを出発するなり猛然と加速していく車の中で、休日の朝ののんびりとした気分は一瞬で吹き飛んでしまった。後部座席に僕らを乗せたワゴン車は、前方を走る遅い車に近づくとさらに加速し、横に素早くハンドルを切ると、隣の車線を走る車との間、わずか1台分が通れる隙間に車を滑り込ませた。ドアミラーとドアミラーが触れあわんばかりに近づき、そして遠ざかっていった。さらに前方では、歩行者がまるで車など存在しないかのようにゆったり平然と車道を横切ろうとしていた。ワゴン車はけたたましいほどにクラクションを鳴らし、ようやく歩みを止めた歩行者の横をまたしてもかすめるように通り過ぎていった。
今までロシアやウズベキスタンといった少しばかり運転の荒っぽい国へ行ったことがあるといっても、この街の交通事情は今までに経験したことのないものだった。ガイドの呉さんは僕の隣で平然とした顔で座っていた。僕もできる限り平静を装ってはいたが、先ほど水を飲んだばかりだというのに喉は乾き、心臓の鼓動が少し速くなっているのが感じられた。落ち着かずに視線をさまよわせていると、運転席のバックミラーの横に写真が飾ってあるのに気がついた。運転手の娘さんであろう、チベットの民族衣装を着た女の子の写真だった。運転手も愛する家族がいるのだ、だから彼の運転はここチベットでの安全運転なのだ、そう思うと少し僕の気持ちも楽になった。

(ワゴン車の中より)
中国内陸部の都市である西寧(セイネイ)から青蔵(セイゾウ)鉄道に乗って24時間、念願の地であるチベットにたどり着いたのは前日の夜のことだった。チベット自治区の中心都市ラサは標高3600メートルだから、ほぼ富士山の頂上と同じくらいの高度がある。飛行機を利用してチベットに行くのは高山病の発症の危険性も高いため、時間をかけて高度順応しながらラサにたどり着く電車の方を選択した。道中、電車の窓からは荒涼とした赤茶色の岩場と、地平線まで広がる緑の草原が繰り返し現れ、ときどき遠くにヤクの群れを見かけることができたが、人影はおろか人家を見ることすらほぼ全くなかった。最初は珍しげに歓声をあげ写真を撮っていた中国人たちも次第に飽きてしまったのか、最後には思い思いに窓の外を黙ってぼんやりと眺めているだけになった。一日中続くその光景から、僕はいかにチベットが秘境なのかということを思わざるを得なかった。


(列車の中より)
だが次の日の朝、こうしてワゴン車に乗ってラサの街を行くと、思い描いていたチベットとはいささか趣が違っていた。街路樹の少ない道路と漢字の看板が並び立つ様子はいかにも中国の地方都市といった感じで、わずかにチベットらしさを感じるのは道行くチベット族が着ている、彩り豊かな民族衣装くらいのものだった。2006年に西寧とラサを結ぶ青蔵鉄道が完成し、チベットへ行くことが容易になったため、チベットに在住する漢民族も増え、その結果チベットの様子もかなり変化したのだという。ラサ市内の交通ルールが混沌としているのも、そうした急激な変化のせいなのだろうか、 ガイドの呉さんもちょうど5年前に中国中央部の都市武漢からこのラサへやって来たそうだが、中国人である呉さんですら怖いのでラサで車を運転したことはないと言っていた。
ところで、専属のガイドをつけるとは何と豪華な旅行なのだろう、と思っている方がいるかもしれないが、それは2008年のチベット暴動以降、外国人がチベットへ入域するには中国政府の発行する「西蔵入域許可証」なるものが必要で、許可証を発行してもらうには前もって旅行日程を決め、それぞれにガイドをつけることが必須条件という、全くもって面倒な決まりが存在したためなのである。要するに不穏な行動をしないよう監視付きということなのだが、呉さんには滞在中とても誠実にガイドをしてもらったことは、彼の名誉のために書いておきたい。それにしても滞在中全く慣れることができなかったのは、過剰ともいえるラサの警備体制で、寺院や博物館へ入るたびにボディチェックと荷物のX線検査が必要だったりするのは序の口で、ラサ市街では人民解放軍の兵士たちが見晴らしのいい建物の屋上から監視をしていたり、街角で何人かの兵士が死角を作らないように背中合わせに銃を持って立っていたりするのを見ると、いかに中国政府がチベットで再び暴動が起こるのを恐れているかがうかがい知ることができた。加えてチベットでは僕の風貌が怪しく見えるらしく、滞在中何度も警備員などに呼び止められ、証明書の類を見せろと言われるのには正直参ってしまった。(つづく)

(ラサ市街地、建物の屋上に人民解放軍の兵士が見える)