
ジェイムズ・ジョイス作「ユリシーズ」といえば、現代文学を語る上で絶対に外せない作品として非常に有名であり、ランダムハウス社による「20世紀の小説ベスト100」の1位に輝やくなど、数多くの賞賛を浴びてきた小説です。しかし僕のジョイス体験といえば、10年ほど前に丸谷才一らによる新訳ということで話題になった時に、意気揚々と購入しながらも、一巻目の半分ほどであえなく挫折し、それ以降、本棚の奥深くに封印した苦い経験でしかありませんでした。今回およそ四ヶ月かけて、夜眠る間際にちびちびと寝酒を楽しむように読んで、ようやくこの本を読了することができました。
この本は、アイルランドの首都ダブリンの1904年6月16日を描いた小説です。スティーブンとブルームという二人の主人公をめぐって、何か特別なことが起きるわけでもない、淡々過ぎていく一日を描いています。しかし数多くの読者を挫折させる原因は、そうしたストーリーの平板さにあるのではなく、ジョイスの真髄ともいえる言葉遊びの翻訳にあるのではないかと僕は思います。例えば、落語や漫才を英語に訳する時に、その面白さまでも翻訳できるかという問題を考えればわかっていただけると思いますが、言葉遊びを翻訳する難しさというのは、言葉の意味を通じるようにすれば面白さを失い、面白さを追求すれば言葉が意味不明になるという二律背反にあります。やはり「ユリシーズ」の本当の面白さは英語で読まなければ理解できない、といってしまえば簡単ですが、英語圏においてさえもそれなりの教養がないと読めないこの本を、日本人が英語で読むのは研究者でもない限りほとんど不可能なのではないでしょうか。
そうであるならば、「お前は四ヶ月もかかって、その本から何を学んだのか?」という問いかけは当然出てくるでしょうが、そんな時、僕はこう答えるより他ありません。様々な言葉遊びと文体を試みることによって、従来の文学概念を破壊しつくしたジョイスの「新しいものを作ってやるんだ」という前衛的姿勢、ただそれだけ。しかし僕にはそれで十分です。