
地名に詳しいと言われることがあります。確かに「余部」(あまるべ)とか「占冠」(しむかっぷ)といった地名でも、普通に読めたりします。「三つ子の魂百まで」といいますが、幼い頃に鉄道が好きで、時刻表をよく見ていたせいかと思われます。
なぜ鉄道が好きだったのかという理由は、周りの景色が動くから、見知らぬ土地に憧れていたから等々、色々推測はできますが、結局自分でもよくわかりません。しかしほとんどの鉄道マニアもまた、自分が鉄道好きな理由をよくわかっていないのではないでしょうか。
さて今回紹介する本は、作家であり元祖「鉄道マニア」でもあった内田百(うちだ・ひゃっけん)の『第一阿房列車』(だいいちあほうれっしゃ)です。内田百は優れた短編小説の書き手としても知られていて、僕は『長春香』や『東京日記』といった作品も好きなのですが、この本は列車に乗って全国を周遊した旅行記になります。この本の冒頭、百センセイはいきなりこう宣言します。
用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。
この何の生産性もない無意味さ。無駄な力が抜けていてとてもいいです。さらに百センセイは、用事がなくて出かけるのだから三等車や二等車に乗るのは嫌だ、俺は一等車がいい、と意味不明のことをのたまいます。その上、なんとその旅費を友人から借金をして工面する無茶苦茶ぶり。その後も、出発の日を決めると束縛される気がするから嫌だ等々、子供のような我儘はとどまるところをしりません。まるで百センセイ自体が暴走機関車のような気がしてきました。通常、こんなセンセイに付き添うのはさぞ大変だろうと思いますが、同行者である「ヒマラヤ山系」は元来鈍い性格なのか、全く気にする様子もありません。
旅行の最中、百センセイと「ヒマラヤ山系」は乗り継ぎの汽車に乗り遅れます。その駅で二人は次の汽車をひたすら待つことになるのですが、百センセイは「ヒマラヤ山系」にこう尋ねます。
「これから、どの位待つのだろう」
「丁度二時間です」
「二時間だって(中略)その間、こうやってぼんやりしているのか。まあいいや、ほっておこう」
「何をです」
「何も彼もさ」
「はあ」
まるでゴダールの映画のような、ある意味シュールな会話です。しかし、そこで流れている時間は日常生活では絶対に味わうことのできない時間です。鉄道マニアとは、こうした無意味にゆったり流れる時間に、ひどく魅かれる人たちのことをいうのかもしれません。