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チベット旅行記(3/3)
チベット14
(ラサ郊外のチベット族の家)
 今回の旅行ではラサ郊外にあるチベット族の家庭を訪問することができたのだが、牧畜と農業を営む一般的な農家でも部屋には電球があり、居間の棚にはテレビやミキサーといった電化製品が置かれ、その生活環境が確実に変化しているのがうかがわれた。そのミキサーで作れらたヤクのバター茶で彼らに歓迎され、その少々塩の効いた独特の風味を味わいながら、もしチベットが独立国だった場合、ここまで生活環境は便利にはなっていなかったのだろうな、と思ったのも事実である。チベット15
(バター茶、塩を加えていて独特の風味がする)
 現在のチベットが中国政府の元に完全にコントロールされている状況を考えると、外国人旅行者である僕たちが見るのはどうしても中国政府のフィルターを通したものになってしまうだろう。つまり『セブン・イヤーズ・イン・チベット』で描かれていたのが欧米から見たチベットだとすれば、今回僕が見たのは中国から見たチベットと言ってもいいと思う。その両方を見たとき、これからチベットが一体どのような道を歩めばいいのか、今のままがいいのか、独立を目指すのがいいのか、正直言って、僕は結論が出なくなってしまった。
 ただ今回の旅行で改めて強く思ったのは、チベット族にとっていかにダライ・ラマという存在が大切なものかということである。16世紀以来、歴代のダライ・ラマが観音菩薩の化身として、チベット族の尊敬を集めてきた存在であることはどうやっても否定できない事実で、ポタラ宮にあるダライ・ラマ14世が24歳まで暮らしていた部屋の前に来ると、チベット族の人はみな一段と深い祈りをその部屋に捧げている。その様子を見ると、公には禁じられていても今もダライ・ラマへの尊敬はチベットでいきづいているように感じられた。
チベット16
(チベット族の一般家庭にある仏間)
 また訪れたチベット族の民家にある仏間の棚に、もう一人の聖人であるパンチェン・ラマの写真は飾られていたが、ダライ・ラマの写真が飾られていないのはとても不自然な光景だった。『セブン・イヤーズ・イン・チベット』で聡明な少年として描かれていたダライ・ラマ14世もはや今年で75歳である。チベットがこれからどのような形をとるにせよ、そこにダライ・ラマの姿がないのは、チベットにとっての不幸としかいいようがない。彼の一日も早いチベットへの帰還を願ってやまない。
 さて30分ほど滞在したチベット族の民家からの帰り際、僕はガイドの呉さんに彼らにこう言ってもらうように頼んだ。「皆さんのこれからの幸運を祈っています」と。日本語から中国語、さらにはチベット語へ翻訳されたその言葉がうまく伝わったのかどうか、彼らの反応からはよくわからなかった。帰りの車に向かうとき、その家の最長老であるおばあさんが一緒にやって来て、最後尾から門を出ようとする僕に、彼女は柔和な笑顔で両手を差しのべた。彼女の皺だらけで小さい手を握ると、思ったよりも肉厚で、彼女は力強く僕の手を握りかえしてきた。チベット侵攻以前に生まれ育ったため中国語を話せず、チベット語しか話せない彼女は、チベットにとって激動の時代を、僕らが思っているよりもきっとはるかにたくましく生きてきたのだろう。僕は思わず日本語で「本当に幸運を祈っています」と言って、彼女の手を強く握りかえした。
チベット13
(チベット仏教の聖なる湖の一つヤムドク湖)
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【2012/04/25 22:53】 | チベット | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
チベット旅行記(2/3)
チベット7
(チベット仏教独特の祈り方「五体投地」をする人々)
 4日間というチベット滞在期間中、僕たちは様々な仏教寺院を回った。極彩色の仏像やタンカと呼ばれる巨大な仏画、また灯明がヤクのバターで作られた蝋燭だったり、といった日本とは違う部分にばかり最初は眼を奪われがちになるが、根底には六道輪廻という日本と共通の仏教思想があり、釈迦牟尼や弥勒菩薩の話も我々にはおなじみのものであり、むしろ言葉が違っても同じ宗教を信仰しているという親しみのようなものを次第に感じることができた。
チベット8
(六道輪廻を表現したマンダラ)
 またとりわけ感銘を受けたのはガンデン寺という寺院で、4000メートルの山の上に作られた伽藍は、周りに何も無いところによくぞここまで作ったな、と宗教が人を動かす力を感じたし、俗世から隔離された寺院の中で出会う僧侶たちの顔は、ラサ市街にある寺院の僧侶たちの顔よりもだいぶ穏やかなもののように思えた。
チベット9
(ガンデン寺、今も多くの僧が修行している)
 ところで日本出発前に度々尋ねられたのは「なんでまたチベットへ?」という質問で、それに対して僕は、チベット仏教に興味があったからとか、青蔵鉄道に乗ってみたかったからとか答えたのだけれど、その度に心の中では何だか違うなという気分になってしまったのだ。それは女性から「なんで私のこと好きなの?」と訊かれ、君の性格がとか、君の姿がとか答える度に、やっぱり何だか違うな、そういうことじゃないのになと思うのと一緒で、チベットへ行きたいというのも、何か明確な理由があってというよりは、曖昧なものだけど確かに存在し続けた気分のようなものだったせいと思う。
チベット10
(ガンデン寺、奥には僧侶の姿も見える)
 さてここからようやく映画の話も加わる。1997年に公開された『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画を覚えているだろうか。当時、人気絶頂にあったブラッド・ピット主演ということもあり、日本でも話題を呼んだ映画だった。実在したオーストリア人登山家ハインリッヒ・ヒラーの眼を通して、第二次世界大戦前後のチベット、そしてダライ・ラマ14世との交流を描いた作品である。僕がチベットに行きたかったのはこの映画を観たから、と言うと全くの嘘になるが、2008年、テレビでチベット暴動のニュースを見るたび、この映画のある場面のことを思い浮かべていたのだから、映画が僕のいわゆる「チベット気分」に影響を与えたのは間違いないだろう。その場面というのは1950年の中国人民解放軍によるチベット侵攻のところで、チベットの僧侶たちが膨大な時間をかけて地面に描いた砂のマンダラを、軍の将校が軍靴で踏みにじり破壊してしまう場面である。
 当初チベットへ行くまで僕は、チベット侵攻とはどういうものなのかを、この一場面がとても象徴していると思っていた。そしてチベットへ行くからには、中国のチベット同化政策の現状をしっかり見ておきたいとも思っていたのだった。実際、ラサの象徴ともいえるポタラ宮の周囲には新しいデパートや店が建ち並び、道行く人々は携帯電話を使って話をしているなど、漢民族資本の流入は著しいものがあった。
チベット11
(ラサの市街地、道の向こうはスーパーマーケット)
 一方、中国政府はチベット侵攻のことを「チベット解放」と呼んでいるように、人民解放軍がチベットの過酷な格差社会を壊し、人口の9割もいた農奴を解放したのだ、と主張する。確かにかつてチベットの政府が置かれていたポタラ宮の壮麗さには圧倒されたし、その中に置かれている黄金で作られた歴代のダライ・ラマのお墓を見ても、チベット侵攻前にいかに官僚や僧侶に富の集中が行われていたかは想像に難くない。
チベット12
(ポタラ宮、近くで見ると本当に巨大な建造物だ)
【2012/03/18 22:41】 | チベット | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
チベット旅行記(1/3)
チベット4


 ホテルを出発するなり猛然と加速していく車の中で、休日の朝ののんびりとした気分は一瞬で吹き飛んでしまった。後部座席に僕らを乗せたワゴン車は、前方を走る遅い車に近づくとさらに加速し、横に素早くハンドルを切ると、隣の車線を走る車との間、わずか1台分が通れる隙間に車を滑り込ませた。ドアミラーとドアミラーが触れあわんばかりに近づき、そして遠ざかっていった。さらに前方では、歩行者がまるで車など存在しないかのようにゆったり平然と車道を横切ろうとしていた。ワゴン車はけたたましいほどにクラクションを鳴らし、ようやく歩みを止めた歩行者の横をまたしてもかすめるように通り過ぎていった。
 今までロシアやウズベキスタンといった少しばかり運転の荒っぽい国へ行ったことがあるといっても、この街の交通事情は今までに経験したことのないものだった。ガイドの呉さんは僕の隣で平然とした顔で座っていた。僕もできる限り平静を装ってはいたが、先ほど水を飲んだばかりだというのに喉は乾き、心臓の鼓動が少し速くなっているのが感じられた。落ち着かずに視線をさまよわせていると、運転席のバックミラーの横に写真が飾ってあるのに気がついた。運転手の娘さんであろう、チベットの民族衣装を着た女の子の写真だった。運転手も愛する家族がいるのだ、だから彼の運転はここチベットでの安全運転なのだ、そう思うと少し僕の気持ちも楽になった。

チベット2
(ワゴン車の中より)

 中国内陸部の都市である西寧(セイネイ)から青蔵(セイゾウ)鉄道に乗って24時間、念願の地であるチベットにたどり着いたのは前日の夜のことだった。チベット自治区の中心都市ラサは標高3600メートルだから、ほぼ富士山の頂上と同じくらいの高度がある。飛行機を利用してチベットに行くのは高山病の発症の危険性も高いため、時間をかけて高度順応しながらラサにたどり着く電車の方を選択した。道中、電車の窓からは荒涼とした赤茶色の岩場と、地平線まで広がる緑の草原が繰り返し現れ、ときどき遠くにヤクの群れを見かけることができたが、人影はおろか人家を見ることすらほぼ全くなかった。最初は珍しげに歓声をあげ写真を撮っていた中国人たちも次第に飽きてしまったのか、最後には思い思いに窓の外を黙ってぼんやりと眺めているだけになった。一日中続くその光景から、僕はいかにチベットが秘境なのかということを思わざるを得なかった。

チベット6

チベット5
(列車の中より)

 だが次の日の朝、こうしてワゴン車に乗ってラサの街を行くと、思い描いていたチベットとはいささか趣が違っていた。街路樹の少ない道路と漢字の看板が並び立つ様子はいかにも中国の地方都市といった感じで、わずかにチベットらしさを感じるのは道行くチベット族が着ている、彩り豊かな民族衣装くらいのものだった。2006年に西寧とラサを結ぶ青蔵鉄道が完成し、チベットへ行くことが容易になったため、チベットに在住する漢民族も増え、その結果チベットの様子もかなり変化したのだという。ラサ市内の交通ルールが混沌としているのも、そうした急激な変化のせいなのだろうか、 ガイドの呉さんもちょうど5年前に中国中央部の都市武漢からこのラサへやって来たそうだが、中国人である呉さんですら怖いのでラサで車を運転したことはないと言っていた。
 ところで、専属のガイドをつけるとは何と豪華な旅行なのだろう、と思っている方がいるかもしれないが、それは2008年のチベット暴動以降、外国人がチベットへ入域するには中国政府の発行する「西蔵入域許可証」なるものが必要で、許可証を発行してもらうには前もって旅行日程を決め、それぞれにガイドをつけることが必須条件という、全くもって面倒な決まりが存在したためなのである。要するに不穏な行動をしないよう監視付きということなのだが、呉さんには滞在中とても誠実にガイドをしてもらったことは、彼の名誉のために書いておきたい。それにしても滞在中全く慣れることができなかったのは、過剰ともいえるラサの警備体制で、寺院や博物館へ入るたびにボディチェックと荷物のX線検査が必要だったりするのは序の口で、ラサ市街では人民解放軍の兵士たちが見晴らしのいい建物の屋上から監視をしていたり、街角で何人かの兵士が死角を作らないように背中合わせに銃を持って立っていたりするのを見ると、いかに中国政府がチベットで再び暴動が起こるのを恐れているかがうかがい知ることができた。加えてチベットでは僕の風貌が怪しく見えるらしく、滞在中何度も警備員などに呼び止められ、証明書の類を見せろと言われるのには正直参ってしまった。(つづく)

チベット3
(ラサ市街地、建物の屋上に人民解放軍の兵士が見える)
【2012/02/01 23:37】 | チベット | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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