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オン・ザ・ロード
オン・ザ・ロード
 アメリカ人作家ジャック・ケルアックによって1957年に出版されたこの作品は、1950年代後半のアメリカ文学を席巻したビート・ジェネレーションを代表する作品でもあります。従来は「路上」という題名で出版されていたのですが、今回「オン・ザ・ロード」という原題をカタカナ表記にした邦題で新しく翻訳されました。このブログのタイトルでもあるのですが、「on the road」という英語には「路上」という意味の他にも、「旅に出て」とか「放浪して」とか「途上にある」といった意味があります。「オン・ザ・ロード」というニュートラルな邦題にした方が、そうした原題の意味の多義性を尊重しているように思えます。
 この小説では、ケルアック自身がモデルとなっている主人公サルバトーレ・パラダイス(通称サル)が、思いのままに生きる破天荒な友人ディーン・モリアーティと、自家用車やヒッチハイクでアメリカ中を目的もなく旅をする、その姿が描かれています。解説の池澤夏樹の言葉を借りれば、「『オン・ザ・ロード』は「路上」をどこかへの「途上」と信じてひたすら移動を続ける若い連中の話だ」と要約することができます。つまり、この本には明快なストーリーというものはありません。そういう場合、何よりも翻訳が大事になってくるのですが、今回の新訳は従来よりも読みやすく、なおかつ文体にリズム感もあり、なかなか良い翻訳ではないかと思います。
 小説の中で、家族や経済といったシステムから自由であろうとして放浪を続けるサルとディーンは、どこかに落ち着くことをひどく恐れているように思えます。しかし、ある地点からある地点までを結ぶものが「road」であるとするなら、その途上である「on the road」の状態もいつまでも続くものではなく、いつかは放浪も終わりを迎えなくてはいけません。旅も終わりに近づいた時、以前訪れたサンフランシスコで撮られた写真を見てサルはこう思います。
 こういうスナップ写真をぼくらの子どもたちはいつの日か不思議そうにながめて、親たちはなにごともなくきちんと、写真に収まるような人生を過ごし、朝起きると胸を張って人生の歩道を歩んでいったのだと考えるのだろう、とぼくは思った。ぼくらのじっさいの人生が、じっさいの夜が、その地獄が、意味のない悪夢の道(ロード)がボロボロの狂気と騒乱でいっぱいだったとは夢にも考えないのだろう。なにごとも、内側は終わりもなく始まりもなく、空っぽだ。
 自由にアメリカ中を放浪しても楽しいことばかりではなく、小説からはお金も名誉もほとんど何も持っていない者の悲哀すら感じます。しかし、ひたすら自由であろうとするサルとディーンの姿は読む人にきっと何かを残すはずです。僕のお気に入りの一冊。
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【2008/01/05 23:28】 | | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
走ることについて語るときに僕の語ること
村上春樹
 体力維持のため週2回ジムへ行って泳いでいます。1キロあまりの距離をゆっくり泳いでいる間、頭の中ではペースは的確か?息継ぎはスムーズか?といったことを考えるともなく考えています。そうした誰かと会話するわけでもない、水の中で1人きりという時間を過ごすのは僕は嫌いではありません。
 この本は自分自身について語ることの少ない村上春樹が、趣味であるランニングを軸に自分自身を綴ったエッセイ集。今年の秋に発売されてから順調に売れているようです。著者はジャズ喫茶の経営を止めて専業作家としてスタートしたときに、体力維持を目的にランニングを始めたそうです。それから毎年一回のペースでフルマラソンに参加するなど、約25年ものあいだ走り続けてきたわけですが、走ることから色々なことを学んできたと書いています。彼はこう書きます。
 走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねながら、達成規準のバーを少しずつ高く上げ、それをクリアすることによって自分を高めていった。少なくとも高めようと志し、そのために日々努めてきた。
 ここで彼が「メタファー」と書いているのはおそらく、毎日走ることと小説を書くことの間に通底する共通項のようなもののことでしょう。つまり、自分のペースは今日の体調にフィットしているか?ランナーとして自分はどうすれば向上するのか?そういった自分自身との対話が、小説を書くということにおいても地下水脈となって繋がっているということなのですが、そういった小説とランニングの結びつきが、僕がこの本を読んで最も面白かった部分です。著者の走ることへの情熱が感じられ、泳ぐだけでなく走るのもいいかなと思った一冊。とはいえ松本の冬はランニングするには寒すぎるから、春になったらたぶん。なるべく(笑)
【2007/11/14 03:03】 | | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
『ポロポロ』
ポロポロ
 以前にも書きましたが読書会というものに毎月参加しています。今月の課題書は僕の推薦で田中小実昌の『ポロポロ』でした。この田中小実昌は7年前に亡くなった作家で、1990年前後はテレビやCMにも出演していたみたいです。YouTubeに出演していたCMの映像がありましたので参考までに。
http://jp.youtube.com/watch?v=QAwhXyz4w1c
 左の人が田中小実昌ですが、僕も何となく見た記憶があります。何となくとぼけた感じのおじさんですね。
 さてこの『ポロポロ』は作者の代表作とされます。個人的には表題作の「ポロポロ」が最も好きなのですが、読書会でも一番話題になったのがこの作品でした。作者の父親が牧師をしていた独立教会を舞台にした短編になります。その教会は十字架もなく祈りの言葉も決まっていない、いわば異端の教会なわけですが、そこに集まってくる人たちは言葉にならない祈りを呟いたり叫んだりしているのです。それを作者は「ポロポロ」という不思議な言葉で表現しています。平易な言葉を使いながら、極めて多義的な世界がそこでは描かれています。さきほどのCMと同じく、文体もああでもないこうでもないといった千鳥足のような感じで、ちょっとふざけているのかなとも最初は思えるかも知れませんが、しかし読み込んでいくと、そうした印象が擬態に過ぎないことがわかります。
 ある出来事を言葉で伝えるということは、どこかに話を面白くしようという脚色が入ったり、記憶が微妙に違っていたりして、出来事の原初の状態とはどこか違うものになってしまうものですが、通常我々はそのことにあまり気にせず人に伝えてしまうものです。それに疑問を感じて間違ったことを伝えるのが嫌ならば、人は沈黙するしかありませんが、そうした思いを持ちながら、それでも小説を書いて人に伝えたというところに田中小実昌の面白さがあります。彼は「俺はいま嘘をついているのではないか」という疑いを常に持ち続け、なおかつ小説を書き続けたのです。それは小説を書くということ、言葉で何かを伝えるということに対してとても真面目でなければ出来なかったことでしょう。
【2007/10/29 01:41】 | | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ラインマーカーズ
ラインマーカーズ
 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
 さてこれは何でしょう?そう訊かれてすぐに答えられる人は少ないと思います。では声に出して読んでみてください。職場でこのブログを見ている方は隣の人に気づかれないような小さな声で。文章の意味はよくわからないけど何だか心地いいリズムじゃないですか?そう、これ短歌です。作者の名前は穂村弘。1986年に『シンジケート』で角川短歌賞で次席を取ってデビューした人です。その時の受賞者が俵万智ですから、その年は短歌の世界にとって重大なターニングポイントになった年だったと思います。
 穂村弘の作風はいうなればポップ短歌、ゆえに評価も賛否両論真っ二つに分かれます。前衛的だからこそさっぱり理解できないものも確かに多いのですが、優れたものはその短歌の背後にある世界が豊かなイメージとして読むものの頭に浮かび上がってきます。いくつか僕が気に入った短歌を紹介していきましょう。
 体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
 ワンルームマンションに同棲する恋人同士でしょうか、おそらく雪が降るのが珍しい土地のある冬の日の朝のことでしょう。言葉はわりと具体的で僕らが普通にイメージする短歌という感じをまだ残しています。
外からはぜんぜんわからないでしょう こんなに舌を火傷している
 自分の内面を理解してもらうこと、あるいは他人の内面を理解することは常に困難がつきまといます。こちらはほとんど現代会話文といっていいものですが、一方で短歌や俳句の定型にとらわれない自由律の影響を受けた歴史的なものでもあります。それでは最後に一つ。これは賛否両論分かれそうですが、言葉の組み合わせが面白いです。
眼をとじて耳をふさいで金星がどれだかわかったら舌で指せ  
【2007/10/03 02:16】 | | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
別れる理由
別れる理由
 ここ最近は小島信夫にはまっていました。「小島よしお?」と勘違いされた方がいましたが、語感が似ているだけであちらとは全く関係ありません。とはいえ小島信夫も明治大学で教授をしている時に、英語の授業でビートたけしを教えたことがあるそうですから、あながちお笑いと無関係というわけでもないでしょう。ちなみにビートたけしの成績は相当優秀だったそうです。
 小島信夫は戦後文学の潮流である「第三の新人」の1人としてデビューした作家です。「第三の新人」というのは吉行淳之介や遠藤周作といった作家をまとめた名称ですが、彼らに共通するのは戦争やマルクス主義といった大きなことから離れ、もっと身近な自分の生活を題材にした作品から書き始めたということです。もちろん次第に彼らは自分固有の問題意識を深めていき、吉行なら「性」、遠藤なら「キリスト教」といった主題で次々に作品を発表していきます。小島信夫もまた「家族」という主題を突き詰めていき、この『別れる理由』という途方もない問題作で野間文芸賞を受賞します。
 『別れる理由」は12年にわたる毎月の雑誌連載から出来上がった小説です。12年という長い歳月は外見や内面にわたって、ときに人をまるで別人のように変化させます。小島信夫も例外ではありません。毎月発表していくうえで、先月までに発表してしまった部分は取り返しのつかない、やり直しのきかない過去として作者を追い込んでいきます。そうして『別れる理由』という作品のストーリーは次第に崩壊していきます。要約すれば、主人公の前田永造は講演中に突然女になり、その周囲では合唱が始まり、その後には馬になり、アキレスの馬とアキレスの家族を巡る対話をし、ついには作者である小島信夫に電話をするようになり、最後は文壇のパーティー会場にまで現れるようになるわけですが、こうした要約だけでもいかに作品が崩壊してしまったかがわかってもらえると思います。凡百の作家であればとっくに連載を打ち切っているはずでしょう。しかしこの『別れる理由』はその崩壊をあえて読者に見せ続けることで一つの作品になるという、前代未聞のアクロバティックな方法をとっています。そしてこの作品で表現されている「一度起きてしまったことのやり直しのきかなさ」に僕は時間の残酷さを思うのです。
【2007/09/22 23:51】 | | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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